「意思」をもつこと|「図書館」(仮称)リ・デザイン Advent Calendar 2020

私は昨年度まで県立図書館で司書として勤務してきたが、令和2年度からは県教育委員会事務局の生涯学習部門で図書館担当として行政の中から現場を考えるという仕事をしている。

長らく図書館の中にいたため、役所の中の仕事は初めて知ることが多く、その中で気になったこと、考えたことなどを仕事納めの日に書き留めておくことにする。

行政の中には、様々な社会的課題に関する地域の要望をボトムアップさせていく仕組みがある。例えば、県内の各種団体や政党県議団などから県に対し、医療、観光、産業、教育など、様々なテーマに関連した要望活動が行われ、また同じように、都道府県をまたいだ全国組織がベースとなって国へあげていく流れなどだ。

図書館現場にいた頃はこうした「要望活動」に接する機会はほとんどなく、あまり気にかけたことがなかったため、今の職場に来て初めてその概要を知り、これが社会の意思を形作る大きな流れのひとつなのかと、ある意味新鮮に感じた。(その在り方についての是非はいろいろあるのだろうが。)

それはさておき、今回書きたかったことは、それらの要望の中で「図書館」という文字を目にすることがほぼ“ない”ということに対する驚きだ。

私が今いるのは県教委なので、目の前を通っていくのは基本的には教育関連の要望・意見が主だから、曲がりなりにも社会教育施設である図書館に対する事項が含まれていてもおかしくないはずなのに、この約9か月、そうしたことはほぼなかった。あくまで個人的な体感だが、要望の8割が学校教育(GIGAスクール構想、ICT活用、学びのあり方、教員配置、学校統廃合等々)にまつわることで、当然だが、COVID-19に紐づいた事項が多い。当たり前だ。子どもたちの学びを止めないことは、今の状況下において教育行政ではなにより優先されるテーマであることは疑いようもない。

そんな中でまれに「図書館」という言葉を見つけたことがあったが、資料費の増額に関してのもので(それはそれでありがたいことだが)、図書館側がこの15年ほど懸命にその役割を果たそうと取り組んできた「地域の情報拠点」の充実を目指すための要望が載ってくることは皆無だった。

どうしてそんな状況なのかという背景を想像してみると、(1)要望をあげるほどの地域課題として「図書館」が認識されていない (2)地域における現在の図書館活動に不満を感じていない、というあたりだろうか。要は、図書館は「本を借りるところ」と認識されているだけで、本来有する機能が秘めた可能性を地域課題解決に貢献できるものとして捉えてもらっていないということなのかもしれない。 “これから”を語る俎上に図書館が乗っていないことに、もどかしさと独りよがりだったのかなぁという情けなさと少しの寂しさを抱えている。

なぜなら、「図書館はどんな領域ともつながって、地域の課題解決に資することができる」ー自分自身そう思ってこれまで様々なサービスに取り組んできたし、全国の図書館もきっとそうだろうと思っている。でも、社会はそう見てくれていないのだ。少なくとも政策立案を行う側に対して定期的に要望活動を行う上述したような団体には、図書館員の想いや取り組みはほとんど届けられていないのだとわかった。

ただ、だからといってそういう層に影響を及ぼさなければいけないと言いたいわけではない。図書館運営を考える際にはそれも大切なことだと思うが、本来「図書館」とは、そういった「流れ」に関係を持っていようがいまいが、市民一人ひとりが、自分の地域におけるくらしや、未来を考えていくための情報基盤になる役割を担っているはず。

「ユネスコ公共図書館宣言(1994年11月採択)」に「建設的に参加して民主主義を発展させることは、十分な教育が受けられ、知識、思想、文化および情報に自由かつ無制限に接し得ることにかかっている」とあるのもそういうことだろう。それをどう捉え、どんな「図書館像」を目指すのかという「意思」を持つことが、同じくらい大切なのだろうと考えている。

ところで、私は公立図書館のない小さな村で育った。そんな自分にとっての「図書館」といえば、学校の小さな図書室だった。学校司書もおらず、昼休みしか開いていない薄暗い印象しかない場所だったが、まだインターネットの無い1980年代後半に、あふれるほどの情報の中から自らが自由に選択して触れられる場所は、村ではそこだけだった。

あの頃の自分が「図書館」に見ていたもの。それは今思えば「世界」だったのだと思う。

そんな自分にとっての「図書館」の原体験をふまえ、「図書館(仮)」とはなんなのかを考えたとき、今の私は“一人ひとりの「知りたい」に応える機能”だと考えている。「知りたい」という思いを創発し、力を身につけるサポートを行い、誰でも「知ること」が可能な基盤を社会の中に整えること。その機能が「図書館(仮)」になるのかなと思う。

30年後、知ることの基盤として「図書館(仮)」が当たり前に議論される社会になってほしい。そのためには、リ・デザインを考えるとき「『図書館』をどうしたいか、どうなっていってほしいか」ではなく「どんな社会になってほしいか」から考えていくことを忘れないようにしたい。自分の子どもたちがどんな社会に生きて、誰と、どこで、どんな暮らしをしていてほしいか。そこにある「図書館(仮)」はどんな場?機能?だったらいいだろうか。なにより、どんな「図書館(仮)」ならば“知ることって楽しい”と思えるだろうか。

そんな思いを再確認して、2020年の振り返りにしたい。

(念のため記載:上記はあくまで個人としての意見・認識であり、所属先の見解等ではありません。)

2020年12月28日

長野県教育委員会 小澤多美子

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