「私の教育課程の編集主体は私だ!」
いつからだろう。私自身の心の叫びとも言える、そんなことを考えるようになったのは。
「教育課程の編成主体は学校」
学習指導要領にも明記されている、至極当たり前のことである。
でも私は、「ほんまか!?」といつも訝しく感じていた。正確にいうと、「学校の教育課程」は学校が編成してくれたらいい。でも、もっと広い射程として「私の教育課程の編集主体は私」のはずじゃないのかと。それをどこかにちゃんと明記してほしい。みんなで言葉にして確認したい。
そんなことばかりを考えていた。いや、年甲斐もなく今も変わらず、考えている。
私たちは、幼少期より素晴らしい遊びの世界の中で、自分自身で「私の教育課程」を編成してきたはずである。例えばこんな感じに。
1時間目:泥遊び
2時間目:ウルトラマンごっこ
3時間目:自分で作った歌を鼻歌で歌う
4時間目:家の襖に落書きをする
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遊びの世界では「教育課程」とは呼んでいなくとも、「自分が学ぶ何か」は、誰かに編成されるのではなく、自ら編成する。その感覚を確かに持っていたはずである。
でもいつしか、「(学校の)教育課程の編成主体」たる学校が大きな顔でやってくる。「私(学校)が編成して差し上げましょう」と。「私の教育課程」の話なんぞは隅に追いやられてしまう。
「私の教育課程」にとっては、「学校教育の教育課程」は様々な分野に広がる一つの教育課程にすぎなかったはずなのに。。。
向かう世界が広がりを見せてくるにつれ、遊びが生み出す「私の教育課程」のみでは、突破できない局面が出てくる。そこで「学校教育の教育課程」の蓄積を生かしながら頑張ろうとするのだが、どうも「学校の教育の教育課程」と「私の教育課程」との相性が悪い(ような気がする)。
この世の森羅万象、歴史上、世界中の人々の喜怒哀楽・試行錯誤にアクセスしながら、“私の教育課程”そのものを私が直接いじって、進化させていく必要がある。
私にとっての図書館は、それを全力で肯定してくれる場所だ。
私を育てるのは私。人生のハンドルを握るのは私。そのことを確かめ、次に進むために人は図書館へ行くのではないか。
何よりも、まず門を叩く勇気が必要。本棚を前に、背表紙を眺め、本に呼ばれるままに手にとっていく。些細な瞬間かもしれないが、それこそがまさに、「私の教育課程」編成作業そのものだ。
自分でちゃんと言葉にして、司書と対話していく粘り強さも時に求められる。でも、わずかな感覚を頼りに自らが求めるものを尋ねた場合、うまく言葉にならない場合もあるだろう。それでも司書は、私の微かな声に耳を傾け、「もしかしたら、あなたが求めているものはこれかしら?」と提案してくれる。例え、お目当の情報が見つからない場合でも、目の前にいる司書は、“求めに来たこと”自体を全肯定してくれる。
「こんなことをが気になるなんて、自分はおかしいだろうか」と不安になっている人に対して、「あなたの求めていることは、価値がある」と誰よりも理解しようとしてくれる。「どれだけの勇気を出して、門を叩いてくれたかを知っていますよ」と言わんばかりに。
だから、私は諦めずに「私の教育課程」を編成し続けることができる。
あなた(図書館・司書)がいたおかげで、私は諦めずに私を育み続けることができる。
2021年1月16日
三浦一郎 (姫路市立小学校教諭)
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