図書館フラクタル仮説について |「図書館」(仮称)リ・デザイン Advent Calendar 2020

  まだまだ仮説です、いや、たんなる印象かもしれず、そうあれかしという願望かもしれません。

  [図書館]とその[レイアウト]とそこで働く[司書]、[諸機器]、そこにある[本・資料]、その中にある[目次・構成]は、機能というか性質というか使命というか、とにかく相似形になっている──正確にいうとフラクタル。どこを切り取っても”やはり図書館っぽい”──同じものとはいわないけれど、大きいほうも小さいほうも同じ形をしている。

  ということは、館種をまたぎ参加者各々立場をまたいだ図書館イベントを運営していて、また書籍やwebサイトの編集長のしごとをしてきて、どうやらそうだろうという感じていることです。

  「いやそんなことはない。あの人はあんなに恰幅がいいけどわたしはシュッとしてるし…」そんな話ではありません。あなた方は何かの相似形です。

  業務や扱っている資料やミッションや、待遇や将来が違っていても、異なる他館種のひとたちが初対面でふつうに話せている理由も、こういうことだろうと推測しています。

  どういう相似形なのか、、まぁそこは待ってください。

 ~というわけで、私のなかでは、書物というものとフィボナッチ数列の連続線上にいる図書館員という人たちは、文章も整ったものを書くはずで、意図的に崩れた文章を書く時でも頭の中は構造化されているはず。傍論なのでここではそれはさて措く。~

  図書館の世界がフラクタルだというのは、他の職業と比較してみるとわかることです。釣具屋の店員は釣りそのものでも魚でもないし、ラーメン屋さんもラーメンそのものではない。カラオケ屋さんは──これは好い比較対象──[カラオケ店]とその[サービス]その[店員]、[検索マシン]と[曲]と…、図書館のように相似形とは言えないでしょう。すべての業界・世界がそうではないのです。

  で、そこからです。「何をやっても同じよう…」「どこを切っても同じよう…」というのはしばしばネガティブな評価のことばですが、図書館世界全体が相似形だというのは、外に向けてきわめてアピールしやすく、終わりなく成長し続ける種でもあります。

  図書館が成長するお金はいつも図書館の外から来るものなので、外からどのように見えているか(外向きにどう見せるか)は、自分で自分のことをどう思うかより重要なことです。

  ああ、ここでひとつお詫びさせてください。先般のイベント開催(2020年11月1日~30日)はONLINE開催で、例年になくゲートがなく「外の世界」にかなり開けていたし「外のひと」を呼びもしました。が、正直なところ「外のひと、とりわけこれから図書館と関わろうとする方々」にこの世界が”内輪請けの世界””些末なことにこだわり続けている世界””堂々巡りの世界”にみえたらどうしよう」と心配していたのです。ごめんなさい。杞憂でした。全体像として相当な”圧”がありました。会期中、大串夏身先生が「今年は各館とも制約が多いなか、それぞれの得意のなかで持ち分を果たし(各々は至らなかったと悔しいかもしれないけれど)それらが併わさった図書館全体が世の中に姿を示している。全体に賞をあげたい」と仰っていたのが印象深かった。

  また30年後の図書館像、そこへの道のりを考えるとき、このフラクタル性がゴールに必ずたどり着ける根拠なのでは、と。図書館に新しい機能を付加しようという時に、界隈でいつも起こっている免疫反応もそこらと関係があるように思えてなりません。

  さて、なんらかの相似形をした(と私が推定している)図書館世界の人材は、生来そうした性質の者が集まってるのか、育成過程でそうなるのか、職についてからそうなるのか? 聞き取りを始めたばかりなので、つかめていないのです、、教えてください。

いずれであろうが、重要なのは未来像を描くことと同時に”発掘”と”育成”。次回イベントまでの自分のテーマもここです。

  そしてそして、図書館世界がフラクタルであるとして、その”素”となっている形はどういう何なのか…、それはわからん。なので仮説。またの機会にお話ししましょう。

2020年12月13 日

長沖竜二

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