みらいの図書館(仮称)が、人々に必要とされるものであって欲しいと思う。人々にとって必要とされる「場」とはあえて書かない。人々に必要とされる機能が残れば、そしてそれが「場」を求めないならそれでもいい。
そしてこの「人々」には、その時代を生きる人々と、この後続いていく(いってほしいが)そのあとの時代の人々=人類にとって、である。
人々がどういうシーンで図書館(仮称)を必要とするのか?
現代の「図書館」においては、それを図書館が、司書が、図書館に関わる人々が、狭めてしまっているような気がしてならない。固定してしまっているとも言えようか。
それは図書館の機能をよく理解しているがための真面目さと、その機能をもって図書館の有用性としたいという思いの発露であろうと考えるが、ことごとく空回りで、ことごとく自己満足に思えてならないのだ。
なぜか?
それは「人々」を想定しきれていないから。
なぜか?
それは人々が簡単に「想定」できるような単純な構成ではないから。
なぜか?
我々にその「単純な構成ではない」実感がないから。
なぜか?
その「実感」は、我々が「人々」でなければ手に入らないから。
だから
暮らそう。
生きよう。
我々が「人々」になろう。
そこから見えてくる「図書館」(仮称)を見られなければ、我々が見ている「図書館」と、人々が欲する「図書館」(仮称)は永遠に合致しないだろう。
今の我々が基準であってはならない。
「図書館」なんか忘れて暮らそう。
「図書館」なんか忘れて生きよう。
我々が「人々」になって、欲した「図書館」(仮称)を作ろう。
そうしたら「図書館」を思い出そう。
良くも悪くも、思い出せるのは我々しかいないのだから。
2021年1月1日 47歳の誕生日に
学校司書 宮澤優子
表示 4.0 国際 (CC BY 4.0)